運転中に見かけた光景。2歳くらいのよちよち歩きの子の手を引いて、反対側に5歳くらいの子の手を引いて、胸の前にはスリングに小さな赤ちゃんがくるまれていて、背中にはたくさんの荷物が詰まっていそうなリュックを背負って、信号待ちをしてるママさん。すごく厳しい表情をしてた。
『1人で抱え込むには大変すぎるよ。できることがあったら手伝うよ』って言いたくなる。でも、きっと『大丈夫です』って言うんだろうな。だって、数年前のわたしがそうだったから。一度、誰かに頼ってしまったら、その後、自分で抱え込めなくなるような気がしていたから。
あの頃は苦しかったな。楽しいことも嬉しいことも同じように、いや、それ以上にあったかもしれないけれど、その幸せを感じられなくなるくらい、苦しいことが私の心を覆い隠していたんだと思う。思い出すと、苦しかったなという感情が先に出てくるけれど、3人のこどもたちが無邪気ににこにこしている昔の写真を見ると、やっぱり幸せしか伝わってこない。でも、当時のわたしは幸せだったかな?と思うと、きっとそうではなかったと思う。
正しくは『それなりに幸せを手にしていたのに、その幸せに気づくことができなかった』のだと思う。
朝から晩まで『おかあさん、おかあさん』と呼んでもらえる幸せ。手のぬくもりを感じながら散歩できる幸せ。洗濯物が散らかっていても、一緒にお布団に入ってその日1日を終わらせることができる幸せ。わたしはいつもその反対を求めていた。1人の時間が欲しい。1人で歩きたい。1人で眠りたいって。
人は勝手な生き物だから、失ってからしか気付けない。震災や事故や不幸が起きて、当たり前の暮らしを失ってから、手にしていた幸せに気付くもの。振り返れば、幸せだったと言える。けれど、それが『今』という渦中にいると、不満しか数えられない生き物。
3人のこどもと川の字になって、お布団に入っていたとき、娘が言った。『みんな、今日1日で素敵だったことを3つずつお話しよう』って。無邪気なこどもの一言ではっとした。3人はすらすらと今日素敵だったことを言っていく。『ごはんが美味しかった』とか『ビー玉がすっごくきれいだった』とかそんなこと。でも、わたしは今日できなかったことばかりを数えていた。嫌だったこと、苦しかったこと、それを丁寧に数え上げて、本当はあれもこれもやりたかったのに、全部我慢して1人で子育てしてるって思い込んでいた。
見かけた3人のこどもを連れて信号待ちをしていたママさん。苦しいかもしれないし、幸せかもしれない。そのどちらも感じているかもしれない。それは誰にもわからないけれど、それを決めるのは、ほかの誰かじゃなくて、自分だってこと。
子育てや暮らしは確かに大変かもしれない。けれど、手にしているものは、きっとまぎれもない幸せ。こどもを産めた幸せ。自分の手でこどもを育てられる幸せ。苦しくても、イライラしていても、幸せは幸せとしてそこにある。
今、手にしている小さなHAPPYに気づけるかどうか。そして、その幸せをきちんと丁寧に感じて、その日1日を生きることができるかどうか。育児中だけではなくて、自分の人生を終えるまでずっとずっと大切なこと。
わたしも今日1日で素敵だったことを数えよう。お母さんがそんな人生を送っていたら、きっとこどもたちにとっても、希望や勇気になるから。
『今』手にしているものに感謝できるあったかい心をこどもたちに繋いでいく。それはとても難しいことかもしれないけれど、だからこそ、それがわたしたちのチャレンジ。嫌なこと、苦しいことに覆い隠されそうなときも、たったひとつの小さなHAPPYがきっと一筋の光になるから。わたしたちの毎日にも。そして、こどもたちの未来にも。
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